本当は当たり前こそが有難い。「もうコンビニ弁当は嫌!」と言われて気づた記憶のトリック

中1の夏休み明けから学校に行かなくなった娘に、お昼を作って仕事に行くのが私の日課。

夜出かける日は夕飯も作るので、朝に3食分作る事もある。

それは、この4年間、今も変わらないけれど、
もともと料理が得意でない私にとっては、正直楽しくやっているとは言い難い。

それでも、大きくなって、娘の記憶に残る私の料理がコンビニ弁当では寂しすぎる。

時には、仕事が残業続きになったり、気力が落ちたり、疲れがたまってくると、ちゃんとした食事を作る事が疎かになり、「時々お昼何か食べてくれる?」と言ってお金を置いていく事もあった。

私の記憶の中では365日ある中の10%にも満たないと記憶している。

そんな、ある日、
寝坊をして、「あーすまん、寝坊しちゃった。今日のお昼は・・・」といいかけた時、

「えーもうコンビニの弁当は嫌だよ!」と言われて驚いた。

えっ?もうって言う程、食べさせてないじゃん!と。

コンビニ弁当の記憶

コンビニのお弁当をもう嫌だと思わせた、その答えは「感情」。

買ってきたお弁当を食べる時、自分にご飯を用意してなかったという寂しさや、コンビニのお弁当は「嫌だ」という感情が記憶に刻まれていく。

一方、普段作るご飯は、日常的で、当たり前だから、記憶には残らない。

なんか、母親にとっては理不尽だけど、
記憶ってこんなものなのかも。

記憶は喜怒哀楽など、感情が伴ったものが優先的に残るようになっている。

私の母の記憶

そう考えた時、私の母からコンビニ弁当や惣菜物が出てきた記憶がない。

いつも黙々とご飯を作ってくれていた。
そして、母の口癖は「私は料理が得意じゃないから」と、
今の私と同じ。

でも、私の記憶には沢山の美味しかった母の料理が浮かぶ。
朝早く起きて、朝食と、5人分のお弁当を作り、私より早く仕事に出かけていたにもかかわらず、お弁当にはいつも沢山のおかずが入っていて、毎日とても美味しかった。

でも、当たり前だと思っていたから、母に感謝の言葉をちゃんと言った記憶がない。

それどころか、もっと可愛いお弁当(今で言うキャラ弁?)にしてほしいなんて、密かに思っていたし、母親がしてくれなかった事ばかり、記憶に残っていて、手伝うこともほとんどしなかった。

母は毎日、朝、昼のお弁当、父の晩酌用のおかず、夕食、夜のお茶を繰り返す日々、考えてみれば、子供の話をゆっくり聞く時間などない。

それでも、子供だった私は、いつも後ろ姿ばかり、疲れたように見える母の顔を見ていると、寂しくて満たされない思いばかり募らせていた。

やってくれた事

寂しかった記憶ばかり思い出していた私だけど、

毎日お弁当、
運動会では特別料理、
私が食欲をなくすと、大好きなおはぎを沢山作ってくれた。

入院した時は、仕事帰りに毎日来てくれていたし、
夜中に熱を出した時も、すぐに病院へ連れて行ってくれた。

母にやってくれたことは沢山あったのに、
私にとってそれは当たり前だと思っていたから思い出す事がなかった。

どっちに目を向けるか

嫌だった記憶って、当たり前の中のほんの一部に過ぎないのに、妙に幅を利かしている。

本当は、当たり前だと思っていることの方が重要で、「感謝」という感情がいつもあれば、もっと沢山の領域を占めるはずなのに。
してくれた事と、してくれない事、結局は普段、どっちに目を向けているかなんだね。

両親、同僚、友達、恋人、子供にも、今当たり前だと思っている事も、実は当たり前じゃないことが沢山のあるはず。

仕事してお金を稼いできてくれる人
料理を作ってくれる人
話を聞いてくれる人
一緒に笑ってくれる人
おかえりっていってくれる人

そういった1つ1つに感謝できたら、心は今よりもっと満たされることになる。

人はよく大事なのは「感謝」というけど、そうゆうことなんだと、妙に納得した出来事でした。