【父親の背中】数え切れないほどの「ありがとう」と「ごめんなさい」を。


怖いもの知らずで、感じるままに行動する父には、
いつも家族は驚かされる。

父の背中はいつも大きくて、たくましくて、強くて。

私が小学生の頃かな。
林業をしていた父の仕事場に連れて行ってもらった時、

雪が降る山で、私が凍えないように、焚き木に火をおこし「ここにいろ」と言って、一人山に登っていった。

しばらくすると、山の上から大木を抱えながら下りてきて、ただ無心に働いている。

その姿は、まるで、映画ランボーを見ているかのように、力強くて、カッコよくて、心の中で「父ちゃん、すげえ〜」って思ってた。

1:あざ

父は生まれつき顔から首にかけて大きな赤いアザがあった。(たぶん単純性血管腫)

私が生まれた時から見てるから、
気にしたことはなかったけれど、

父は、少し気になっていたらしく
一度母に

「このアザ気にならないか?」と聞いた時、
母は「ぜんぜん」と答えて、
それが、すごく嬉しかったと、

母が亡くなった後、一番上の兄と飲んでる席で
話していたらしい。

私の知らなかった父のコンプレックス。

でも、何だろうね。
子供だからそう見えるのか、そんなアザさえも、父としてそのままカッコいいなぁと私は思ってた。

2:父の刺青

父には刺青がある。
といっても、背中とかでなく、
手首と肘の間の腕に漢字一文字だけ。

若い頃、2000人ほど働いていた大きな建設現場で、力自慢の男達が腕相撲で競い、父はその中で一番になった。

その時に、彫り師に入れられた漢字。それは「男」。

私達3人兄弟が幼かった頃、
父の腕に3人でよくぶるさがったっけ。

そして、若い頃の父を知る人は、口を揃えて、とにかくやんちゃで力が強かったと教えてくれた。

3:足の怪我

あれは確か、私が小学校低学年の頃、
父はチェンソーで誤って、足の親指の付け根を切ってしまった。

骨まで見えているからと珍しく病院に行くという。

私も一緒についていくと、
「縫うので麻酔を打ちましょう」と言われ、父は、すかさず「麻酔などいらん、このまま縫ってくれ」と言って医師の説得を聞かない。
「痛いですよ」と言いながら、お医者さんに麻酔なしに、縫われて、ちょっと歌舞伎顔、子供心に「父ちゃん、無理するな〜」と思ってた。

そのあと、家に帰ると、すぐに酒を飲み始め、あっと言う間に、傷口がパッカリ開いちゃって、

結局、その怪我は、父が自分で作ったカタツムリの脂でいつのまにか治ってた。

4:民間療法

「親父、正枝の病気知ったら、心配してな。人からニワトコがいいってきいて、山にとりに行って毎回お茶作ってたんだぞ」

兄から聞いた父の姿。

母が腎臓を患い、私も小学校4年生の時に腎臓病になった時、父は山からニワトコをとって来ては乾し、いつも煎じて飲ませてくれた。

少し苦くて、独特な味のこのお茶は、毎日の緑茶代わりに3年間飲み続けた。

このお茶が効いたのかはわからないけれど、「激しい運動はもうできない」と医者に言われていた私の病気は、中学3年には完治し、高校では念願の運動部に入れた。そして、今は普通に生活ができている。

「俺も手伝ったけれど、あの木をお茶にするのは結構大変だったんだぞ」

親の想いというのは、
後で知ることが多い。

その話を聞いた時、父が何も言わず、山でニワトコをとりお茶を作り続けていた姿を想像したら、たまらず泣けてきた。

5:初めての虫歯

そうそう、父は60過ぎまで、虫歯を経験した事がなかった。

初めての歯の痛みに、腹がたったのか、「チクショー」と言って、自分で抜いちゃった。

そして、また他の歯も痛み出した時、同じように抜こうとしたから、

家族みんなで「そんな事してたら、歯がなくなるから歯医者に行け」と何度説得したことか。

行く歯医者、行く歯医者口ケンカして、それでも母は諦めず、ようやく3件目の歯医者で大人しく治療を受けてくれた。

父は自分で抜いた歯以外は80すぎても残っていて、

昔は瓶ビールの栓は、いつも歯で開けるくらい丈夫だった。

6:マムシに噛まれる

丈夫といえば、
実家にはマムシ酒があり、これは父の作った滋養強壮剤の一つ。

山で父に出会ったマムシは、高い確率で捕まえられ、お酒に漬けられるか、そのまま素焼きにされて、食べられる運命だ。

私も、当たり前のように食べたし、私の娘も、また、父に振舞われ、好きな食べ物はマムシだと、学校の作文にまで登場した。

父はマムシに噛まれても、あわてない。傷口から毒を吸い出し、噛み付いてきたマムシの皮を剥いで巻きつける。皮の内側に毒素を消す抗体があるらしく、何食わぬ顔でそのまま作業を続けていた。

7:ナタで道を開く

父といえば鉈。
いつも腰には小型の鉈があり、私達を山菜採りに連れて行くと、道なき山を、鉈で張り出た枝を切りながら前に進む。

私達は父が切り開いた道を、父の背中を見ながらついて行く。

父と山に行くと、木に残る熊の爪痕や、動物の残す痕跡、鳴く鳥の声、そして、山では何が食べられるのかなど、色々な事を教えてくれた。

10代の頃から山にこもり一人でなんでもやってきた父は、自然の中で生きていく術を身に付けている。そんな父を見ていると、「何があっても父が一緒なら大丈夫」そう思えた。

8:食卓に招かざる客

これは父の鮮やかな昆虫採取話。
田舎にいる蛾はすごく大きい。10㎝もあるような大きな蛾が、灯りを求めて、ガラス窓にぶつかってくる。大きな音にうっかり障子を開けると、ギラギラ光る目と視線が合ってびっくりする。

そんな蛾が、夕飯の食卓に迷い込んできた時があって、
「うわぁ〜」と逃げる家族をよそに、微動だりとせずご飯を食べ続ける父。
その父がいきなり立ったかと思うと素手で、飛んでる蛾を鷲掴みにし、そのまま外にほおり投げ、「早く食え!」と何事もなかったかのように食事を続けた。

蛾がバタバタと羽ばたいて鱗粉を落ちたご飯。食べるか一瞬迷ったけれど、父の手前、そんなことを言えるわけがない。しかたなく、家族はそのまま黙ってご飯を食べた。

9:犬もお手上げ

父の一番の趣味は山菜採り、
特に秋のキノコ採りの時期は、昼間は力仕事をしながら、朝4時起きで2回、夜はご飯前とご飯後の2回、山に登る。

普通に登れるなだらかな山ではなく、落ちたら命が危ないと言われる山もあり、その体力たるは、これもまた、子供ながら「父ちゃん、すげぇ〜」って思いと、本当見ている方が疲れちゃう。

なんたって、一緒に同行していた犬のポチは、4度目は「もういいわ」と言わんばかりに、山の裾に停めた車から降りようとしなかった。

父は67歳で仕事を辞めるその日まで、全身筋肉だらけ。「疲れた」という言葉も聞いた事がなく、80歳過ぎても、現役で山に登っていた。

10:歯を3本おる

そして、85歳の時、
キノコ採りの最中に、父は転び川に落ちた。

その時に石に顔をぶつけ、前歯を3本折り、小指は折れ曲がり、骨が出てしまっていた。

そんな状態で、キノコを抱えながら「転んだわ」と血だらけの顔で帰ってきた。
見れば小指は、明らかに折れているのに、また、キノコ採りに行こうとしてる。「父ちゃん、病院行こう」と言うと、「こんなの引っ張れば大丈夫だ」と言って、小指を自分で引っ張る。もう見ている方が痛い!家族に説得されて、しぶしぶ病院に行ったけど、

結局、その時治療した先生があまり上手くなくて、変な形で骨がくっつき、小指は真っ直ぐに伸ばせなくなってしまった。

これが、昨年秋の話。

父という人間

まだまだ、父の話は尽きない。

ひょうきんで、お人好しで、大酒飲みで、歌う事が好きで、夕方には、ブラッと散歩に出かけ鼻歌交じりに自然を感じて帰ってくる。

山を愛し、畑を愛し、仕事を愛し、不器用だけど、家族も愛し、

口は悪いが、義理と人情にかけては、人一倍強く、

とにかく曲がった事が大嫌い。
嘘も誤魔化しも、愚痴も言わず、ひたすら働き続けた父。

私は父が現役の頃、仕事を休んだのも、風邪で寝込んだのも見た事がなかった。

だから、私は勝手に、父は100歳まで生きてくれると思ってた。

今年、始めに病院に行ったと聞いても、父ならきっと大丈夫って思ってた。

そんな父が、5月22日の朝、家族全員に見守られながら息を引き取った。

痩せて、半分くらいになった身体、頭の中にはあの強かった父が、何度もよぎり、現実を受け入れられない私がいて、そして今も、まだ夢の中。

それでも、亡くなる数ヶ月前、
「俺の人生、全てやりきったから何のくいもない」。

「あとは自分達でしっかりやれ」

みんなにそう言っていた。

父の最期

あの父が「痛い」と漏らした、癌という病気。膀胱と喉、食道、リンパ、骨まで転移し、モルヒネを打っても、あまり効かず、24時間繰り返し襲ってくるその痛みは、本当に苦しそうだった。

身体の異変には、随分前から気づいていたらしくて、いつものようにギリギリまで病院に行かなかった。

検査した時には、全身に癌が転移していて、手術もできない状態。

周りも、なんとなく気付いていて、何度も病院に行こうって言ったけど、「いい」と言って聞かなかった。

亡くなる10日前、何も食べれなくなり、歩くこともできなくなって、病院に入院した。
痛みをコントロールしてもらって少し落ち着いたように見えたけど、日に日に病状は悪化し、入院して一週間後には、起き上がれなくなった。それでも、頭はしっかりしていて、亡くなる前日まで、質問した事には頷いて答えていた。

「明日また来るね」と言って、病室をでたその9時間後、朝方4時に病院からの電話。

大急ぎで家族全員駆けつけた。

そこから父が息をひきとるまでの3時間。

何をしたらいいのかも分からず、かける言葉も頭に浮かばず、直視出来ず本当に何もできなかった。

ずっと無言実行の父の背中ばかり見ていて、父と娘らしい会話は記憶にない。だから、この無言こそが私と父の会話の形なのだ。

「ありがとう」は心の中で何百回も言った。でも言葉にすると、この父の前では、どんな言葉も全てが薄っぺらく感じる。

それでもどうにか「お父さん、ありがとう、ありがとう」と口にしてみた。

呼吸が浅くなっていき、目を開けたまま、大きな呼吸を最後に、父の全てが止まった。

自慢の父

あの日から、10日が経ち、
6月2日は父の86回目の誕生日。

今になって、父にしてもらった事ばかり浮かんできて、私が父に何も返せてない事に気づき、

なんだか猛烈に父に謝りたい気持ちでいっぱいになった。

そんなこと考えたって仕方がないことも知りながら、

父が亡くなってわかった。
私はまだ、身体が大きいだけの、精神的に幼い子供のままだ。

父という存在をなくし、離れていてもいかに守られていたか、それがどれだけ大きな存在だったか、今更ながら痛感した。

父は、私達家族にとって、超えられない壁であり、愛すべき人間であり、唯一無二の存在。

そして、私達に言葉でなく行動で様々なことを与え続け、常に今出来ることを精一杯やってくれていた。そんな父の生き様を家族はずっと忘れない。

きっと、しばらくは、父を思い出し、「ごめんなさい」と「ありがとう」が、頭の中を何度もこだまする事になる。

そして、

最後に、どうしても言えなかった言葉。

それは、ありきたりだけど、心からの
ありがとうとごめんなさいを、

そして、
「お父さんは誰よりも尊敬する自慢の父だったよ」と。

きっとね、
こんな事を言ったら

ニコリともせず、
「そんなこと言ってないで、しっかり生きろ」

そう言う父の声が聞こえてきそう。

庭にある父の好きなドウダンツツジ。
今年も今が満開だ。