母親の最後の置き土産【後編】

母が救急車で運ばれ、入院から1カ月。
もうダメかもと思った母の様態は徐々に回復し、

ご飯も普通に食べれるようになって、
リハビリを開始することになった。

80歳過ぎての1カ月の入院。
すっかり筋力を失って、
立ち上がることすらできなくなっていた母は

まずは自分で立ち上がる。
それを目標にリハビリセンターへ。

私が付き添った時、
どんな運動だったかな?
思い出せないんだけど、すごく簡単な動作だったと思う。
それでも、とにかく、身体にまったく力がはいらない。

何度か頑張ってみたけど、できないくて、
母は小さな声で「もうやりたくない」とすねた。

その姿は、娘から見ても、ほんとほほえましくて
つい笑ってしまって、

リハビリの先生も笑いながら
「ゆっくり行きましょ。
嫌だったら今日はやめておきましょうか?」
そう言って母を宥めてくれた。

きっと歩けるようになる。
その時はそう信じていたけど、
それ以降、母が自力で立ち上がることはもうなかった。

自宅での生活

しばらくして、母は退院し、
自宅で父と次兄、そして兄嫁の力を借りて暮らし始めた。

父は「絶対に歩けるようになって、
また二人で温泉に行く」そう言っていたし、

次兄もまた、母がよくなることを信じて
料理から、洗濯から、トイレまで、生活全般を支え、

天気のいい日は、車いすに乗せ、近所を二人で散歩し、
日陰でのんびりと風景を見たり、話をしたり、
父と交互に積極的に母の介護をした。

時に「こんなことさせてごめんね」と謝る母に、
「俺、嫌だなんてこれっぽっちも思ってないから」
そう言って、今できることすべてに力を注いでいたように思う。

私から見ても、その姿に悲痛さなどまったくなく、
喜んでやっているように見えた。

今思うと、あの時間は次兄にとって
母を一番身近に感じ、母を独り占めできた
大切な時間だったんじゃないかなと思う。

後になって、次兄が言っていた。
「俺は、介護できたこと、感謝の気持ちしかない。
介護させてくれてありがとうって本当にそう思っている」

その言葉は、週末だけ帰ってきて、母の世話をするだけでは
知りえない、沢山の事を母と共有してきたから言えること。

不器用だけど、母親への深い愛情を示す中で、
母からも、同様に自分への深い愛情を感じることができたのだと思う。

次兄の小さな嫉妬

母がなくなるまでの10カ月。
週末だけだけど、いろいろな話をした。

その中で、忘れられない会話がある。

母が話の途中で
「ねえ、まさえ、このままずっと生き続けちゃったらどうしよう」

笑いながら涙をためて私に言ってきた。

「心配しないで。嫌でもいつか死ぬから
その日まで、意地でも生きてみて。120歳まででもいいから」

そう言って、二人で大笑いした。

この笑い声は二階の次兄の部屋まで聞こえていたらしくて

次の日、
「昨日母さん笑ってたね。
俺の時はあんなに大声で笑ったりしないのに」

次兄のちいさな嫉妬。

まさか、死について笑っていたなんて言えなくて
「だって女同士だもん」と言って言葉を濁した。

週末は母と笑い話。
でも東京では、母を思い出すたびに涙がでていた。

自分でもあきれるくらい涙腺が弱くなって、
通勤しながら、仕事しながら、友達と飲みながら、
涙だけが勝手に流れるの。

よく行っていた友達のお店でも、
話しながら涙があふれ、
「また泣いてる~。なんなの?もういい加減にして」と言われ、

「しかたないじゃん。勝手にでてくるんだもん」

そう応戦して、笑っていた。

私はたぶんこうして、少しずつ
母の死を迎え入れる準備を整えていたのだと思う。

再入院

10月の末、
兄嫁から誤嚥によって
再度入院し、意識がほとんどないと連絡が入った。

すぐに田舎に帰り
母の病室をのぞくと、意識がないと
言われていた母だけど、声をあらげ
目線が定まらない状態で手足をばたつかせる姿が目に入った。
私は何が起こっているのかわからなくて、
怖くてその場にいられなかった。

そのあと、モルヒネを打たれ、
母は再び意識がほとんどない状態となり、

医者から、
「これからの治療について
ご家族と一度話がしたい」と。

家族全員を前に
最初に出てきた言葉は
「このまま治療を続けますか?」

とても冷静で無表情。

「もういいです」なんて言えるわけがない。

「モルヒネをやめたら、また目を覚ましますか?
もう一度、母と話がしたいんです」
そう言うと、

「たぶん脳梗塞を併発していると思われます。
目を覚ましてもどうなるかはわかりません」

その言葉に、様々な事が頭をよぎったけど、
それでも、家族全員で話し、
モルヒネを一度やめてもらうことで同意した。
それが正しかったかどうかなんて、今でもわからない。

ただ、目を覚ます母の姿をもう一度見たかった。

先生との話のあと、家族はいったん家に帰り、
私はそのまま母の病室で、静かに眠る母の姿を見ていた。

薄くなった皮膚から体液がにじみ出ていて、
手を触ると冷たく感じた。
小さい頃、触ることを躊躇した母の手。

意識がない中、
「お母さん」と声をかけると、目の上がピクッとして、
私の声が聞こえているんだなと思った。

二人だけの病室で、
本当は「ありがとう」って言いたかった。
でも、言葉にできなかった。

ありがとうなんて、簡単な言葉じゃないと
感じたから。

母に伝えたいことは、もっと深くて、言葉でなんか表現できない。

だから、結局何も言えなくて、
ただそばで、母との事を思い出し、
涙を流すことしか私にはできなかった。

その日は面会の時間ギリギリまでいて、
「お母さん、また明日の朝くるからね。
待っててね」

そう言って家に帰った。

母が亡くなった日

朝の面会の時間に再び病室へ。

「お母さん来たよ」

それからは、あっという間だった。

いつものように身体を拭きにきた看護士が去った後、
口の中に水が溜まっているのが見えて、

すぐに、インターホンで、先生を呼ぶと
ご家族の方に連絡した方がいいと。

すぐにみんなに知らせたけど、
その間も心臓の動きを知らせる数値がどんどん下がっていく。

私一人「お母さん、お母さん、死なないで
お父さんがもうすぐ来るから」ただ呼びかけた。

テレビでよく見ていた光景が目の前で再現され、
少しして数値がゼロを示したその数秒後、

次兄と父が病室の扉を開けた。

私の表情からすべてを感じ取った次兄は

母に駆け寄り、頬を両手で包みながら、
「かあちゃん、かあちゃんは世界一のかあちゃんだった。
世界一やさしいかあちゃんだったよ」

震えながら大きな声で、
あれほど体裁を気にする次兄が
医者も看護士もいる前で、母に最後の言葉を叫び、

その横で、父は茫然とし、ただその場に立ちすくんでいた。

その後、到着した兄嫁と兄、孫達。
そして、父の姉である母の親友もかけつけて、

しばらく病室で話したあと、
全員で母を車に乗せ家に連れて帰った。

母の置き土産

お葬式を終え、母はお骨となって家に戻ってきた。

そのお骨を見ながら、
私はこの10カ月がなかったら、
どうなっていただろうと考えた。

心の準備する期間を母はくれたのだと思った。

そして、週末だけだったけど、
精一杯、母にかかわることができて、
後悔よりも、少し清々しさが残るようなそんな感覚。

私が25年前にした決意をかなえてくれた母。
次の朝まで、待っててくれたとそう思っている。

そして、母の最後のお願いは兄嫁に託されていた。
「次兄を頼む。一人にしないでほしい」と。

これは、次兄にというより
周りの私たちへの言葉。

次兄は長年心の病で、家にいたから、
もし父に何かあったらと思うと
心配でたまらなかったのだと思う。

この後、
気持ちを切り替えつつある私と
まだ母への悲しみでいっぱいの次兄とで、
少し口論が起こった時、

母が言った最後のお願いを伝えた。
母の想いを知ってほしかった。

次兄はその時
その言葉をどうとらえたのかはわからない。

ただ、その2か月後、自分でもできる仕事を探し、
履歴書をもって面接にいく行動を起こしていた。

母の残した置き土産。

それは、私たちへの深い愛情。

最後の最後に
次兄の人生の再出発を後押しし、
父へは、若い頃にしてきた罪滅ぼしをする機会をくれた。

苦労を掛けたと何度も言っていた父は
最後まで、母をみることができて、
次兄同様にやりきった顔をしていた。

多くを口にせず、余計なことをしない長兄は
自分の会社を最優先にしながら
次兄の行動を見守り、

兄嫁は看護士として
私たちではできないことをサポートしてくれた。

82歳で亡くなった母、
私たち家族と生きてきた時間は
どんな人生だったのかな。

欲を言えばキリがないけど、
もっと話をしたかった。

お盆を前に
母を思い出し、ブログに書きながら再び涙したそんな一日。