母親の最後の置き土産【前編】

母がこの世を去って今年で7年。

お盆休みも近づき、
父に会いたいと思いつつも、娘は鹿児島、
なんだか一人で行くのもなぁ〜と、
休みも短いし、今年はどうやら東京で過ごすことになりそう。

そんなことを考えながら、アパートに飾ってある母の写真を見ると、
初孫を抱いて、嬉しそう。

当時、膝に痛みがあって、歩くのも辛そうだったのに、
孫が生まれると、孫を抱っこしたいからと、
右足の人口関節の手術を決意した母。

その後、独り身だった長兄が
奇跡の出会いから、なんと2ヶ月後に電撃結婚。
二人目の孫、三人目、四人目と次々生まれる中、

まだまだ、孫を抱っこしたいからと言って、
左足も人口関節にする手術をして、
歩けるようになると、孫と一緒に散歩したり、
歌を歌ってあげたり、話をしたり、
子供達にとって、本当に優しいおばあちゃんだったと思う。

そんな母は、なくなる20年程前から、
リウマチを患っていて、ついでに、糖尿病、腎臓の病気、
膝の痛みや、高血圧という、今考えれば病気オンパレード状態だった。

そして、初孫が生まれた頃は、
手の痛みから料理もできなくなっていたし、
具合もそんなに良くなかったと思う。

それでも、孫と一緒にいるときは嬉しそうだった。

母の日常は、座椅子に座り、遊びに来る孫たちを、
ただ家に迎え入れ、一緒にテレビを見たり、
父や次兄の作ったご飯を食べて、近くの温泉に行く
そんな毎日を過ごしていた。

なんか、当たり前の光景過ぎて、
あえて考えてもいなかったけど、
母はただそこにいて、みんなを迎え入れてくれる存在。
ただそこにいるというだけで、私達は安心していられた。

何もしなくても、
一緒にいるだけで、何かを与えてくれていた。

その何かは、今ちょっといい表現が見つからない。

自己完結していた子供時代

私が18才で東京に出た時は、
まだ母は元気で、父の仕事をバックアップしながら、
家の事も、仕事もしていた。

そんな忙しかった母に、私は甘えることが出来ず、
自立した子供のフリをしていたように思う。

今思えば、自立なんて一つもできていなかったけどね。

家に遅く帰っても「どこに行っていたの?」とか、
「何かあったの?」とか、言われた記憶がなくて、
部活の大会で賞状をもらったとしても、
筒を開ける事なく押入れの中。

父に怒られない範囲で行動しながら、
自然と自己管理、自己完結するクセが出来あがり、

学校での事も、友達との事も、
多分話した事がない気がする。

家族に自分の事を話すと言う選択肢がなかった。

母が家事や仕事に忙しくて、
私達子供に関わっている時間がなかった事は、
なんとなく理解していたから。

だけど、頭でわかっていても、
心は納得していなかったんだよね。

隠れていた感情

私が21歳、
仕事を見つけ、一人暮らしを始めた頃、
母は一時的に仕事を辞め、自分に時間ができたのか、
私に電話をしてきたことがあった。

滅多にない電話の先から

「昨日は電話してもいなかったけど、
どこに行っていたの?」

聞いた事がない言葉に、私は驚き、動揺し、
同時に涙が溢れてきた。

そして、出てきた言葉は、

「えっ?
お母さん、私は今21歳だよ。
その言葉、小さい頃に言ってくれたこともないくせに、
何を言ってるの!」

色々言ったけど動揺して全部は覚えていない。
ひどいこと言っていると思いつつも
途中で止められず、

泣きながら、身体もワナワナしちゃって、

「今更、そんな言葉聞きたくない!
ふざけないで!」そう言って
電話を切ってしまった。

この反応に一番驚いたのは私自身。

一人で大丈夫、
そう強がっていたけど、本当は誰よりも
心配してほしかった。

私は母からこの言葉を聞きたかったんだと
自覚した出来事だった。

でも、この一件で、
母は、前と同じように
私には何も聞かなくなった。

私の決意

頭に来て、言ってしまった言葉。
本当はごめんなさいと言いたかったけど、
結局言えぬまま、

それでも、母は私にとってかけがのない
とても大きな存在である事はわかっていた。

その時、東京で暮らしながら、
母に対して一つだけ、心に決めたことがある。

「母が亡くなる時は、私は必ず側にいよう。
例え海外にいようとも、私は必ず駆けつける」

そして、この決心だけは、ずっと揺らぐ事はなかった。

そう思いながら歩いた道も今もちゃんと覚えている。

母が倒れた

この決心から25年後の正月11日。
私と娘が帰省から東京に戻った数日後。

母は倒れ救急車で運ばれた。

母の状態を見た、医者から
「このままにしますか?治療しますか?」

そんな訳の分からない質問をされ、
父は意味がわからないまま、

「治療してくれ!」と言ったのだそうだ。

医者としては、
良くなったとしても介護になると言う判断だったのかもしれない。

私に連絡が入ったのは、それから数日後。
看護士である兄嫁からだった。

状況説明と、
落ち着いたから大丈夫だと。

その後、次兄に電話したら、
大丈夫だから帰ってこなくていいと。

その言葉を一旦信じたけど、
2週間過ぎた頃、

なんだかやっぱり気になって、
実家に内緒で、病院に駆けつけた。

病室に入ると、
お正月で見た母とは違い、
弱りきった姿は別人のようだった。

母は私を見るなり、涙ぐみ、

「待ってた」と一言。

私も涙が溢れ出し、
「大丈夫だって聞いてたけど、
全然大丈夫じゃないじゃん」

そう言って二人で泣いた。

そのあと、お母さんの話を聞いていると、
多分幻覚を見てるのかな。

話の辻褄が合わないところがあったりで、
初めて見る母の姿に少し戸惑いながら

「何か飲み物持ってくるね」と言って、

一度病室を出たら、
また、止めどなく涙が出てきて、

そこに、ちょうど通りかかった看護士さんが

「どうかなさいましたか」と話しかけてくれて、

「お母さんが死んじゃう」

そう言って、泣き出すと、

「あちらで少し話しませんか?」と、
休憩室に誘ってくれた。

看護士さんは何か言うでもなく、
ただ寄り添ってくれて、

ようやく落ち着くと、

「大丈夫ですか」

その優しい声に、

私は、ため息交じりに頷き、涙を拭き、
「ありがとうございました」と言って
母の待つ病室に戻っていった。

ちょっと長いので続きは後日。